ーパリ・画商徒弟時代(1875ー1876 )
2022年4月21日配信
今回のまとめ
ーゴッホが「画家」になる前の、若き日の素顔
| 今回のラジオでは、1875年〜1876年、パリで画商見習いとして過ごしていた22〜23歳のフィンセント・ファン・ゴッホの手紙を読み解きました。 「コレクター」としての情熱: 意外にも、当時のゴッホは「描く人」ではなく「集める人」。給料の多くを版画や本の購入に充て、親しい人へ贈ることを無上の喜びとしていました。 鋭すぎる人間観察: 「心の中の詩人が死んでしまった亡骸のような人間」と叔父を評するなど、若くして独自の生死観や芸術観を持っていました。 挫折さえも美しく: 画廊を解雇された際、「リンゴは熟すと、そよ風が吹いても枝から落ちる」と、自らの境遇を自然の摂理に例えた冷静かつ詩的な感性。 「描く」という言葉のない日々: この時期の手紙には、まだ「画家になりたい」という言葉は一度も登場しません。多くの作品に触れ、心を震わせる「長い助走期間」の中に彼はいました。 天才画家として知られる前の、あまりにも人間らしく、純粋で、孤独と理想の間にいた青年の姿。その「彩り」を感じていただければ幸いです。 |
今日は4月20日水曜日、15時18分から収録しています。いつもご視聴ありがとうございます。
早速ですが、先日ご紹介いたしました「アートさんの管理されているKYさん」からメールが届きました。
「川田祐子様、こんにちは。昨日の雨から一転、爽やかな日差しが暖かいですが、ラジオを拝聴しました。嬉しいご紹介ありがとうございます。本日、Instagramとブログでも『画家・川田祐子の画家ラジオ』を紹介している旨を掲載しました」
本当にたくさん紹介してくださってありがとうございます。そのおかげで、登録者数も少しずつ増えてきている感じがしており、とてもありがたいです。
メールには続きがあります。
「最近、原田マハさんの『たゆたえども沈まず』を読んだばかりだったので、川田さんの『ゴッホの手紙』のお話から、さらに人間としての彩りを感じています」
ご感想ありがとうございます。実を言うと、私は子供の頃からあまり小説を読まないんです。文学少女ではないんですね。本は好きなのですが、自分の人生があまりにもハラハラドキドキすることばかりなので、フィクションの小説を読むとさらに疲れてお腹いっぱいになってしまう。そんな理由で、小説を読む喜びをあまり知らずに過ごしてきました。
しかし、今回調べてみましたら、原田マハさんの『たゆたえども沈まず』(幻藤舎)は、19世紀後半のパリを舞台にしたアートフィクションなのですね。浮世絵を売り込む林忠正と、無名の画家ゴッホ、そして兄を献身的に支える画商のテオ。その奇跡の出会いが世界を変える一枚を生んだという、読み始めたら止まらない物語だそうです。
ゴッホと「青」と「浮世絵」のつながり
以前、杉野さんとの対談(「画家と凡人」シリーズ)の「青のシリーズ」の動画内で、ゴッホが使っていた青色についてお話ししました。ゴッホは当時、化学的に作られた発色の良い「プルシアンブルー」を使っていました。
実は日本の浮世絵にも、いち早くその人工顔料が届いていました。パリの万博で5,000枚以上の浮世絵が展示されたことをきっかけに、パリ中の画廊で浮世絵が販売されるようになります。ゴッホがお世話になっていた画材屋兼画商のタンギーさんの店にも、壁一面に浮世絵が貼られていました。ゴッホはその壁を背景に座る『タンギー爺さん』を描いていますが、背景には確かに浮世絵が描き込まれています。
ゴッホが膨大な浮世絵のコレクションを持っていたという話は、まさにこの小説にも出てくるらしく、非常に興味深いですね。時間がある時にぜひ読んでみたいと思いました。
22歳のパリ滞在:画商としての「下積み時代」
さて、ゴッホ自身も弟のテオも、ヨーロッパ中に支店を持つ大手画商「グーピル商会」に勤務していました。当時は勤務先がバラバラで、一緒に働くことはなかったようです。
前回は、ロンドンにいたゴッホがテオに手紙を書いたお話をしましたが、その後いろいろあって彼はパリ支店に転勤になります。22歳から23歳にかけての時期です。のちに33歳頃、モンマルトルにあるテオの部屋に転がり込む「パリ期」がありますが、今回の滞在はその10年以上も前の、まだ「見習い」として下働きをしていた頃の話です。
この時期、ゴッホは職場で上手くいっていませんでした。そんな中で1875年7月6日、テオに宛てた手紙がとても興味深いのです。
モンマルトルの部屋と、壁を彩る版画たち
手紙の中でゴッホはこう綴っています。
「モンマルトルに部屋を借りた。君も気に入るような部屋だ。小さいけれども、ツタが生い茂る楽しい庭が見える」
そして、自分の部屋の壁にどんな版画を貼ったかを、事細かに報告しています。
ライスダールの『茂み』、レンブラントの『聖書を読む』、コローの『夕暮れ』、ミレーの『一日の四つの時』……。
彼は版画を眺めながら、自分の中にイメージを蓄積させていたのでしょう。テレビもコンピューターもない時代、旅から旅へ移動する彼にとって、重い本(画集)よりも銅版画を手に入れる方が都合がよかったのかもしれません。この手紙からは、彼がいかに「コレクター」としての情熱を持っていたかが伝わってきます。
心の中の「詩人」を亡くした大人たち
ゴッホは本や詩をとても愛していました。当時の文化は小説や詩などの文芸から始まり、それが絵画に影響を及ぼしていく時代でした。手紙(1875年7月15日)の中には、こんな鋭い人間観察が出てきます。
彼は、自分と折り合いの悪い「ビンセントおじさん」についてこう書いています。
「おじさんは、現実的なことについては何でも分かっている。だが、ほとんどの人の中には詩人が潜んでいるが、詩人は若くして死に、人だけが生きながらえるとすれば、おじさんはまさにその一人だ」
ゴッホの目には、おじさんは「心の中の詩人が死んでしまった亡骸のような人間」に映っていたのです。詩人という存在を基準に人間を見つめるゴッホの感性に、私は強い魅力を感じました。
また、1875年9月の手紙では、父親が送ってきた「聖なる目」という言葉に対し、こう返しています。
「僕たちはそこ(聖なる境地)にはまだまだ及ばない。けれど、いつか辿り着けるよう祈ろう。僕を信じていてほしい。僕は君より少し先に進んでいるから分かるが、少年期と青年期は虚しいだけだというのは本当だ」
若者らしい純粋さと、理想への渇望がひしひしと伝わってきます。
モンマルトルでの「奇妙な同居生活」
当時、ゴッホはモンマルトルのアパートで、店で働く18歳のイギリス人の若者と同居していました。
「彼は最初、食べ方も無茶苦茶で笑いものにされていたけれど、次第に親しみを覚えるようになった。彼はとてもナイーブで純真な心を持っている。毎晩一緒に帰り、僕の部屋で聖書を音読しているんだ。朝は5時か6時に彼が僕を起こしに来る」
ゴッホはこの純朴な若者に、お気に入りの絵を見せるためにリュクサンブール美術館へ連れて行きます。「賢い人間に分からないことが、純朴な人間には分かるものだ」と言いながら。
彼はパリで単身暮らしをしながら、友人に食事を振る舞い、知り合いには本や版画を惜しみなく贈っていました。「貧乏な画家」というイメージからは程遠い、豊かで人間味あふれる生活をこの時期のパリで送っていたのです。
「リンゴは熟すと、そよ風が吹いても枝から落ちる」
しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。
1876年1月10日の手紙で、彼は画廊を解雇されることを報告します。
「全く予期していなかったことが起こった。画廊のルースリンに、今年も働かせてもらえるか尋ねたら、4月1日をもって店を出ていくようにと言われた」
ここで彼は、素晴らしい言葉を残しています。
「リンゴは熟すと、そよ風が吹いても枝から落ちる。ここで起こったことも同じだ」
むしゃくしゃしたり、相手を恨んだりするのではなく、抗えない自然の理のように淡々と受け止めているのです。「自分は間違ったことをしてきたので言い訳の余地はない。お先真っ暗だが、希望と勇気を持ち続けよう」と。
解雇が決まってからも、彼は最後のお給料の大部分を使って、親愛なる人たちのために版画や本を買い集めました。なんて良い人なのでしょうか。
画家になる前の、長い助走
パリを去る直前の手紙には、デュラン画廊でミレーやコローの絵を見た感動が綴られています。
「ミレーのエッチングを我慢できずに何点か買ってしまった。『晩鐘』の最後の3点も買った。弟の君にも1点送るよ」
この時、ゴッホは23歳。
驚くべきことに、この時点での彼の手紙には「自分は絵を描きたい」「画家になりたい」という言葉はどこにも出てきません。人の作品を買い、版画をコレクションして楽しんでいるだけなのです。
そんな彼が、これからどのようにして「描く側」へと成長していくのか。
それを手紙から読み解いていくのが、今から楽しみでなりません。
この後、彼はイギリスに戻り、臨時職員として教壇に立つなど、自分を生かせる場所を探して転々とする旅を続けます。その続きはまた次回。
最後までご視聴ありがとうございました。続きが気になる方は、ぜひチャンネル登録をよろしくお願いいたします。
次回の放送では、ゴッホが教師として過ごしたイギリス時代の手紙を読み解いていきましょうか?